五十にして惑わず

五十を過ぎて迷う事が少なくなったような気がします。

「政治は三流」は国民の総意ですか?

いよいよ明日が衆議院議員選挙投票日となりました。月曜の朝刊には大勢が決まった記事が掲載されることでしょう。

選挙期間中は、候補者の皆さんは当選目指して様々な形で選挙活動を行っています。

演説では、私や○○党に投票してくれたら、生活を良くします、とか、明るい未来が待っています、というような口幅ったい事を仰いますが、当選してからの行動はどうでしょうか?

コロナ禍での銀座クラブ豪遊だったり、会員制ラウンジで働いていた大学生と愛人契約を結んだり、国会会期中に議員席で雑誌読んだり、寝ていたり・・・

何のために国会議員になったのか疑問に思う先生方も、残念ながら一部存在します。

これらはほんの一例に過ぎず、過去毎年のように国会議員による不祥事のニュースが報じられています。

不祥事を起こしても次の選挙で当選したら、「禊が終わった」として、過去の不祥事は清算されたかのように扱われます。

百歩譲って、「禊」を受けた先生が、国に取って貴重な人材であれば許されないこともないかも知れません。

ですが、居てもいなくても国政に全く支障がない人が当選する場合が殆どではないでしょうか。

私達国民は、「なめられている」のです。

「日本人は忘れっぽいし、次の選挙で低姿勢で謝りながら、それなりに良い事言っとけばいい。」くらいに思われているのです。

「○○党あるいは、○○さんよりはこっちの方がまだマシ」

というような消去法で投票する人もいるのでしょう。

長らく日本の政治は三流と言われ続けています。

三流にしたのは、国民の意志でもあると思います。

政治家の活動に対しては、多額の税金を投入しているのです。一人ひとりに緊張感を持って行動してもらいたいものです。

そうしてもらうようにするためにも、国民の監視と投票権を行使するといったことが必要となるでしょう。